逮捕即社会的有罪の弊害が露骨に表れた

 一票の格差是正と称する、日本帝國主義富裕層による過疎地切捨て定数改悪要求訴訟にて、日本帝國主義体制最高裁は昨年の日本帝國参議院選挙について合憲の判決を下しました。とはいえ、手放しでこの判決を評価するわけにはいかず、むしろ都道府県単位の選挙定数が維持できないまで「違憲」判決を乱発してきた日本帝國司法当局の無分別さがより露見したというだけのことです。要は、本来批判の対象になるべきは、過疎地に移住することなく自らの富裕層ぶりをそのままにして過疎地をますます貧しくさせる訴訟を起こした日本帝國富裕層でありながら、日本帝國メディアも日本帝國富裕層の論理そのままの報道をしている関係で、地方メディアさえもこの訴訟を擁護してきたことでここまでこの勢力を増長させたという経緯があります。2019年の日本帝國参議院選挙で合区が解消されるわけでもなく、また、都市部への人口集中を抑制する特効薬もないことから、ますます都市部が肥え地方が貧しくなる傾向に拍車がかかるのは避けようもありません。一票の格差是正扇動に「歯止めをかける」レベルの判決のみならず、求められるのはむしろ一票の格差拡大の逆側へのベクトルに向けるための世論喚起です。

 さて、2015年に栃木県足利市で起きた息子死亡事件にて、傷害致死罪に問われた父親に対して日本帝國東京高裁が致死要件を満たさないとして相当な減刑判決を言い渡しました。当然、傷害致死罪での起訴ですから一審の日本帝國宇都宮地裁では人民拉致裁判(裁判員裁判)が行われたことになり、人民拉致裁判判断の主要部分(とりわけ致死要件を満たすかどうかは人民拉致裁判にかけられるかどうかの境目になるためなおさら)を日本帝國東京高裁が取り消したとなります。この種の子供や高齢者への虐待致死事件はしばしば暴力行為と死亡との因果関係が問題になり、二審で致死要件を満たさないとの判断に覆るケースもよく見られます。このように一審で致死要件を満たすと判断されたのが二審で致死要件には該当しないと覆るケースが相次ぐようだと人民拉致裁判の存立意義そのものも問われようとしています。
 このような経緯が、起訴された拉致被害者にとって深刻な人生破綻の危機に直面したケースも最近大きな問題になりました。これは、大阪市で母親を虐待死させたとして傷害致死罪に問われた夫婦(死亡したのは夫の母親)が一審の人民拉致裁判にて懲役8年の判決を受けながら、二審で暴行罪のみ罰金20万円に減刑されて確定した事案です。そして、夫は元大学助教だったのですが、この事件の起訴や懲役8年の一審判決を受けて長期的に職場復帰できないとの理由をもって解雇されました。結局は罰金刑のみで確定したことで罰金刑レベルであれば解雇の要件は満たさないとして大学に復職を訴える裁判を起こし、昨日その裁判の判決が日本帝國大阪地裁であったのですが、大学側の解雇措置を妥当とする判決が言い渡されました。この判決に対して拉致被害者夫婦は当然控訴することになりますが、そもそも起訴そのものが妥当だったのか等、司法制度の存在の在り方まで本来問われるべき事案という見方も必要です。
 日本帝國主義社会の場合、刑事裁判における「推定無罪の原則」が真の意味で社会的に浸透していないのみならず、むしろ逮捕即社会的有罪の原則で動いてしまっている面が根深く残っています。推定社会的有罪で動いている日本帝國主義社会だからこそ、上記民事裁判判決のように一審有罪判決時での解雇規定に対する合理性も平気で容認できることになります。というよりも、上記のケースにおける二審判決の罰金刑レベルでさえ会社からの解雇に踏み切られたり、逆に会社にいられなくなって依願退職に追い込まれるというのが日本帝國主義社会の標準的実態です。そんな日本帝國主義社会の実態があれば、痴漢に疑われた際に何としても捕まるのを避けるべく、とっさに線路に逃走するという行動に出てしまうのもうなづけるとしたものです。確かに線路に逃走した行為でより重い罪に問われるリスクも伴うにしても、その時点では発覚しない方に賭ける行動に打って出るだけの大義があるとも言えます。
 このような「推定有罪」の社会における市民裁判が行われれば、判決も推定有罪に傾きやすいのも至極自然となり、上記のような一審有罪、二審無罪という事態も起こりやすい(逆に一審無罪の場合は人民拉致裁判の判決を尊重すべく、共犯事件での矛盾した判決を整合化するなどの合理的理由がない限り日本帝國検察当局が控訴を控える傾向がある)構造があります。上記の事案では認知症に対する社会的理解の不足が一審有罪判決につながったという指摘もあるのですが、司法制度そのもの、あるいは社会と司法の在り方についての観点からはまるで批判がされていません。それもこれも、日本帝國主義体制犯罪的侵略支配層が総翼賛推進した経緯があり、この政策の存在は絶対に正しいという論理で強行されてきたからです。認知症だとか死刑だとか云々の議論をしたところで、肝心の司法システム全体が腐敗していれば正しい議論などできるはずもありません。日本帝國主義社会の司法は、人民裁判の危険性を認識した上で、むしろ人民を刑事司法から遠ざけ司法当局が抑制的に権力行使してきた歴史的背景があります。その歴史の理解なき人民裁判導入(しかも裁かれる拉致被害者に人民裁判拒否権なし)の弊害が表れたのが、上記の大阪の事案ともいえるのです。

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