映画「否定と肯定」から酌むべき教訓(4=人民拉致裁判制度廃止論との絡み)

 本日は日本帝國主義体制によっての「天皇誕生日」なる祝日です。とはいっても、現在の今上天皇がセウォル号船員と同等の越南逃走(西側帝國主義侵略勢力が勝手に「脱北」と称する行為)級無責任退位を表明してその期日が2019年4月30日に決定したため、この12月23日の「天皇誕生日」は来年までとなります。そして、次の天皇即位となる2019年5月1日や「天皇誕生日」でなくなる2019年12月23日の扱いをめぐって、カレンダー業界も印刷ができないといった不都合が生まれています。2019年5月1日を臨時の「祝日」にすれば前後の4月30日や5月2日も休日となり10連休といった話も公に出ているだけになおさらです。2018年は現今上天皇の退位を含めて平成時代の回顧扇動が1年を通じて行われそうな雰囲気ですが、それと並行しての憲法改悪扇動との一体化には十分警戒しなければならないのは当然のことです。

 さて、映画「否定と肯定」についてここ数日触れてきたのですが、本日は人民拉致裁判制度(裁判員制度)との直接的に絡む問題として触れたいと思います。この映画は、荒唐無稽なホロコースト否定論を展開した男性が、ホロコーストを歴史的に説明する書物を著した女性の活動をホロコースト否定論に対する妨害行為だとして訴えた実話をもとに作られたものですが、訴えた男性側にはホロコースト否定論を世界的議論の俎上に乗せるといった目的もあったことが大きな問題になりました。即ち、訴訟の勝敗を別にして、ホロコーストの否定か肯定かといった問題が訴訟の場に乗ってしまうことそのものが原告男性側の狙いになってしまう意味もあり、そうさせないことが被告女性側に求められたことでより被告女性側の負担も大きくなったわけです。原告男性側の主張そのものについていかに荒唐無稽なものかを実証するという丁寧な扱いをしなければならなかった、その苦心の跡もこの映画の眼目でもあるのです。
 そこで日本帝國主義社会はどうかといえば、ヘイトスピーチの被害に遭った在日朝鮮人がヘイトスピーチを行う極右反動勢力に対する民事訴訟を起こさざるを得ないほど問題が深刻化しています。本来、この種のヘイトスピーチは「荒唐無稽で無視できるレベルの戯言」のような扱いをできる社会環境であることが世界レベルで求められるのに、日本の常識は世界の非常識といわれるように、この種の妄言が現実的に悪い力を持っていて実害も出ているとなれば、この種の訴訟を起こさざるを得ない事態にまで追い詰められてしまいます。そして、この種のヘイトスピーチに対して原告側がヘタな訴訟戦術をしようものならば、世界的には議論の対象になってはならない「歴史的事実」についての論争を引き起こす裁判にもなりうる構造もあります。世界的議論の余地のない「歴史的事実」を日本帝國主義社会内で論争をすることは全世界に恥をさらすことになるという国際感覚を持たねばならないのに、逆に日本帝國主義社会は国内論争になることで国際的論争にもつながるというおかしな感覚を根深く持っているという他ないのです。
 人民拉致裁判制度について考えた場合、日本帝國主義社会内ではこの政策の存在そのものを絶対に論争をしてはならないという日本帝國主義体制侵略的支配層の確固たる国家意志が断固としてあります。人民拉致裁判制度否定論はホロコースト否定論と同等の「荒唐無稽な主張」と位置づけられている構造です。その意味では、こちらが法廷で論争を仕掛けても、制度の存在そのものについて法廷の場で一切議論をしないという態度で接されるだけでしょう。映画「否定と肯定」は、あくまでホロコースト否定論者から訴えを起こした経緯ゆえに、ホロコーストを肯定する普通の人民感覚を持った勢力は、その歴史的事実を論争にさせないという姿勢を貫けました。逆に、ホロコーストを肯定する普通の人民感覚を持った勢力からホロコースト否定論者を訴えるといった行動をとってしまうと、これはホロコーストの存在そのものを世界的議論の俎上に自ら乗せる愚策になってしまうわけです。そうなれば、人民拉致裁判制度否定論を公論化するための条件は、人民拉致裁判制度推進日本帝國主義侵略勢力側から制度の存立について議論の俎上に乗せざるを得ない状況を作り出すこととなるわけです。
 ホロコースト肯定の普通の人民感覚を持った勢力がホロコースト否定論者を訴えるような行動をする必要がないのは、ホロコーストは存在したという歴史的事実として世界の共通認識レベルになっているからです。ただし、ホロコースト否定論者が跋扈しないよう、たとえわずかな扇動であってもそんな危険な芽を摘み取る必要があるという理由からドイツ連邦共和国等ではホロコースト否定論が犯罪として扱われています。一方で人民拉致裁判制度は日本帝國主義侵略支配層の一方的な論理で推進された経緯もあり、人民の共通認識にはまるで至っていません。当然のことながら議論が公になるだけの下地はそろっているわけで、日本帝國侵略支配層にとって議論の俎上には絶対に乗せないとの確固たる姿勢を貫くには無理もあります。その無理を顕在化させることも我々には求められるわけです。

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