人民拉致裁判制度廃止運動により日本帝國主義的立憲主義論を嘲笑しよう(2)

 朝鮮半島北南高位級会談が3日後の1月9日に行われる予定になりました。しかし、その前日は敬愛する金正恩朝鮮労働党委員長の生誕記念日であり、現に一昨年には1月6日に豊渓里地下爆破実験を行っていることを考えると、本日から8日にかけて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が何らかの大きな動きをしても不思議ではありません。むしろ、大きな動きを行って「それでも会談するのか」と迫ってくるのが朝鮮共和国の性格とさえいえます。それもそのはず、平昌での冬季スポーツ世界的大イベントの時期には通例の極悪合同軍事演習はしないとはいえその直後から行うとの宣言をアメリカ合衆国帝國主義体制が働いていて、数日間延期するだけでは「譲歩」とはとても言えないからです。こちらが注視しておきたいのは、アメリカ帝國主義体制や南朝鮮傀儡(大韓民国)体制相手ではなく、日本列島に向けて何らかの動きをしてくる可能性です。平昌の冬季スポーツ大イベントの時期は、東日本大震災からちょうど7年に重なる意味もあり、朝鮮共和国から南やアメリカ帝國主義体制に対して挑発する意図はないと述べることもできるからです。

 さて、2018年は日本国憲法が大きく動くといわれる重要な年になりそうですが、そもそも日本国憲法について国民的議論をするといった意味がどれほど大きなものか?という疑念を私が持つのは、人民拉致裁判制度(裁判員制度)のようなとんでもない政策がまかり通ってしまったことに大きな原因があります。無論政策の内容もさることながら、何しろ日本帝國主義支配層が総翼賛したのみならず日本帝國最高裁までもが不正行為を働いてでも推進した経緯に深刻な問題があるからです。人民拉致裁判制度は重罪事件を扱う関係で国家統治の根幹にかかわる政策でもあり、憲法を論じるに準じるレベルの重要性もあります。そのような政策を日本帝國最高裁が不正を働いてまで推進した経緯からしても、この政策の公正な評価が不可能になってしまっているとしか言いようがありません。
 そもそも政治の在り方として、国家三権というよりも人間社会運営のシステムとしての立法・行政・司法は厳格な順序があり、まず社会の規則を作る立法、そして規則に基づく運用となる行政、最後に規則の存在そのものまたは規則に基づく運営を評価する司法という順序です。ところが、人民拉致裁判制度に関していえば、まず司法ありきで政策が作られ、その規則の下でしか人民に対して人間社会の運営を許さないという手法がとられました。無作為に選出した人民に対して裁判加担拒否を許さないという条文は当然ですが、それよりも、規則の存在そのものに対して批判的意見を持つということが司法加担への適格性が問われるという性格上、無作為抽出した人民に裁判加担を義務付ける制度設計となった場合、規則の存在そのものに対して批判的意見を持つ人民は一人たりともいない、ということがこの政策の存在の大前提になってしまうのです。それゆえ、日本帝國支配層は全員賛成の上でいかなる批判的な意見も許さないという手法がどうしても必要になりますし、政策を実行するにはいかなる不正行為に手を染めることもいとわないといった異常事態も起きるのです。
 国政や地方選挙で一票を投じるのは棄権することも自由なのに抽選に当たれば重罪裁判加担への拒否が許されないとか、憲法改悪問題は国民的議論にしようとする機運が高まっている一方で人民拉致裁判制度への国民的議論は許されない手法で推進されたとか、このような設計や経緯を考えると、明らかに人民拉致裁判制度は日本国憲法よりも事実上上位の法規範になります。本来は法律が憲法よりも上位の法規範などということはあり得ないはずですが、人民レベルの反発が容易に予想される政策を無理やりにでも強行するにあたっては日本国憲法よりも事実上上位の法規範としてしか成し得なかった現実が、このような異常な手法が取られる要因にもなったわけです。このような異常な法の上下関係があっては、憲法を論じる以前に人民拉致裁判制度の存在を論じない限り人民拉致裁判制度あっての憲法という関係が変わることはなく、いかなる憲法も人民拉致裁判制度の存在を前提にした運用しかされません。まして日本帝國最高裁が不正行為を通してまで推進した政策には永久的に正統性への疑義がついて回りますので、日本帝國主義体制の正統性にも関わる大きな問題になるのは言うまでもありません。
 世界政治の歴史でも稀に見るとんでもない手法と内容というレベルの政策で、こんな手法や内容の政策がまかり通っては政治の在り方そのものに世界レベルで禍根を残すのは言うまでもありません。そして、日本帝國最高裁が不正行為に手を染めてまで推進した以上、法的手続によるこの政策への公正な評価を期待しえないことも本サイトでは何度も触れてきました。こんな経緯を考えると、相応の手段を講じてでも人民拉致裁判制度への敵対行為を行う動機が生じて当然ですし、むしろ相応の手段を講じないことは日本帝國犯罪的侵略支配層の白色テロを黙認するという意味で反人権行為とさえ言えます。人民拉致裁判制度への強硬手段は、日本帝國主義社会における「立憲主義論」が無意味極まりないものであることを証明することにもなる、というわけです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です