任侠組織を考える(3=権力に対する姿勢)

 明日は広島に原爆が落とされてちょうど73年になる当日なのですが、その重要な日を狙ってなのか日本帝國主義体制佐賀地裁にて死刑求刑事案の人民拉致裁判(裁判員裁判)判決が言い渡されます。折しも朝鮮半島の平和機運が高まっている中で、日本帝國主義体制だけが朝鮮半島の対立をずっとあおり続けているのだから話になりません。戦争も死刑も国家による殺人という共通点があるのですが、そんな国家の殺人に日本の善良な人民を加担させるような事案を、よりによって広島原爆投下の当日に働くのは、まさに日本帝國主義体制の反人倫の極みです。このような日本帝國主義体制の本性を世界はますます見抜くことでしょう。

 さて、任侠組織について連日触れているのですが、任侠組織はいざとなれば暴力を使うので反体制的組織のようなイメージもどこかにはあるかと思います。弱きを助け、強者に対して相応の抵抗をするといった思想で生まれた組織だとの印象が世間的には強いこともあるでしょう。また、一部を除いては建前上一般市民を標的にしないという活動方針が基本であり、一般市民に危害が加えられるのはあくまで流れ弾に当たった結果であるというケースが大半です。もちろん、任侠組織の「流れ弾」が極めて危険なのは言うまでもなく日本帝國捜査当局は徹底した取り締まりを図るのはもっともですが。
 しかし、基本的に任侠組織は権力との真っ向勝負はしません。権力にガチンコで対決しようものならばそれこそ伝家の宝刀・破壊活動防止法を抜かれて一発で組織崩壊です。それもこれも、破壊活動防止法の要件である組織性と継続性は任侠組織は全てが満たしていて、あとは政治性が加わるだけで要件を満たしてしまうとなれば、任侠組織は相応の手段を講じる際に政治問題と絡めることは絶対的にできないとなるのです。日本帝國警察当局とのある程度の対決はしても、政治に深くかかわるような日本帝國公職組織との対決にまでは手を出さないのが基本です。むしろ、公職権力とはある程度の手打ちをして、日本帝國警察当局ではない日本帝國公職権力組織も過剰なまでのファッショ暴圧にまで手を出さないようにしているのです。
 日本帝國公職権力にとっても、いかに任侠組織といえども日本国憲法で集会・結社の自由が認められている以上、「暴力団対策法」以上の過剰な結社規制にでも走って組織解体後の元構成員を路頭に迷わせたりすれば公職権力の方に社会的批判が集まることも想定されますし、それこそ権力に対する任侠組織の相応の手段を講じさせる動機付けにもなります。あまり任侠組織を追い詰めないくらいに規制するというのが権力の適度な行使ということになります。一方で一般市民を標的にしたり、日本帝國警察当局を積極的に標的にするような組織であれば組織壊滅まで視野に入れたファッショ暴圧も許されるといった雰囲気もあります。組織解体後まで視野に入れて構成員に対する徹底的な越南逃走(西側帝國主義侵略勢力が勝手に「脱北」と称する行為)級転向扇動も働かれたりします。
 そして、考えておきたいのが、2年前の工藤會関係者による人民拉致裁判加担拉致実行犯・白色テロリストに対する公正な裁判を求めた活動の件です。工藤會関係者側はおそらく個人的活動として個別の案件に対する活動のつもりだったのでしょうが、人民拉致裁判に対する一切の否定的思想を認めていない日本帝國主義権力当局はこれを人民拉致裁判制度そのものへの介入とファッショ解釈したのです。だからこそ、その後の工藤會に対する途方もない報復的ファッショ扇動が過剰なまでに働かれたわけです。ここまで来た以上、工藤會が組織存続をかけて人民拉致裁判には手を出さない態度に堕落転向してしまうのか、それとも組織の誇りをかけて頂上作戦と称する報復的挑発扇動に対して相応の抵抗を示すのか、重要局面に来ているのは間違いありません。

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